2009年12月29日火曜日

写真家・上野彦馬

写真機を日本に初めてもたらしたのは、彦馬の父であった(長崎の御用商人を務めた)上野俊之丞でした。父・俊之丞はフランスのダゲールが発明した銀板写真機ダゲレオタイプを嘉永元年(1848)にオランダ船から輸入しました。その後、安政四年(1857)俊之丞が輸入したカメラは蘭癖藩主として知られる薩摩藩主島津斉彬の手へと移ったのでした。

時を同じくして俊之丞の四男・彦馬は海軍伝習所の教官として長崎に来ていたオランダ人医師ポンペのもとで舎密学(化学)を学び、写真術に関心を持つようになっていました。

しかし、当時の日本では写真に必要な薬品(感光材)の入手が困難で、世間の理解もままならない状態でした。後に彦馬が写真撮影に必要な薬品を精製するために記した「舎密局必携」は化学の入門と写真術の手引書(教科書)として明治初期まで利用されました。

スイス人写真家ロッシェの指導を受けた彦馬は文久2年(1862)中島川沿いにスタジオ上野写真撮影局を開き、幕末・明治で活躍した多くの人物を撮影しています。勝海舟・坂本龍馬・高杉晋作・木戸孝允・T.B.グラバー・ロシア皇太子ニコライ2世など歴史にその名を残す人物ばかりです。彦馬は人物だけではなく、風景写真や天体観測の撮影も試みています。これらの写真資料は当時を知るうえでとても貴重な資料であり、今でも大切に残されています。日本の写真術の開祖である上野彦馬はプロカメラマンの先駆け的存在としてその生涯を通じて日本の写真術の確立と発展に尽力を尽くしました。